母親がしんだ
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ちょっと前に母親がしんだ。
がんだった。
ブログに書こうかどうしようか迷ったけど、今の段階での記憶を文字にして残してみようと思った。
お盆だし。
でも重い話なのでご注意ください。
7年くらい前
自分が働きだして2、3年後、両親が東京に出てきて言いづらそうに、ふたりで目を見合わせて少しはにかんだような顔をしながら伝えてきた。
「がんになった」と。
びっくりした。鼓動が速くなるのがわかった。頭が真っ白になった。あんまり深くは聞けなかった。
窓際で、自分は床に座って、午後の日差しが差し込んでいて、少しまぶしかったのを覚えている。
母親は元気そうだったし、その後2、3年は普通に会社で働いていた。定年までもう少しだったがその手前で働けなくなった。
3年くらい前
ここまで書いて、ふと母親のことを文字に起こしたことがあったような気がしたのでエバーノートをさがしてみたらあった。
2013
5/26
母親は起き上がるのも精一杯といった感じで、
父親が料理なんかをがんばっていた。
なぜかカレーなのに味が薄かった。
料理を作るのに慣れていないらしい。
食事のときは元気そうにしていた。
調子が良いときと悪いときがあるらしい。
ただ俺が来たから元気にふるまっていた気もする。
その夜はすぐ寝た。
明日の朝から一緒に病院に行くことになった。
5/27
車で30分近くの場所にある病院は初めて行く病院で、俺が電話番号や診察時間なんかを調べたりした。
クルマに乗るとツライらしく、降りると一歩も動けず、駐車場に座り込んでしまった。
親父が受付を済ませ、3人で支えながら待合室に入った。
母親は一人では歩けない状態で、名前を呼ばれると父親に後ろからしがみつくような形でなんとか歩いていた。
診察を受けている最中、おれは一人で待っていた。
診察が終わると、どんな状態か話してくれた。
脳に2つがんがあるということ。
それ以外に、良性の腫瘍があること。
その腫瘍が脳の位置をずらしてしまって、体調に影響を与えていること。
手術をするために明日から入院すること。
ちょっと泣いてたけど、「がんばるから」と手を握ってくれた。
帰りのクルマで、
母親は「もっと早く来たらよかった」と後悔していた。
父親は「でもコレがいまの最善だしがんばろう」と励ましていた。
病院を出ると、母はまた歩けなくて、玄関前に座り込んでしまった。
おれはクツを履かせた。
家に帰って、近所に住むばあちゃんちへ向かった。
ばあちゃんにはまだ話していないから。
でももう話しておくべきとの判断で。
俺が家に行くと喜んでくれた。
でもすぐに本題を切り出して顔が曇ってしまった。
本人の口から話した方がいいと思って、知らないと言って母親の状態はしゃべらなかった。
ばあちゃんはいろいろ話してくれた。
おばあちゃんは6人兄弟でみんな長生きだったこと。
でもひとりがんで亡くなった人もいたこと。
毎日がんが治るように祈っていること。
わたしはもう十分生きたからできれば変わってあげたいと思っていること。
最近散歩してる姿がみえなくて心配していたこと。
おかあさんがそんな状態じゃ、と漬物や魚の煮つけを出してくれた。
お昼ごはんを食べた直後だったけど。
おばあちゃんはいつもそうだ。
ばあちゃんと母親の妹と一緒に実家に戻ると、親父が今日のことを説明し始めた。
飼い犬がほえるので、ずっと抱いていたんだけど、おれの知らないはなしも聞こえてきた。
違う病院で、肺がんで余命1年といわれたこと。
それからもう3年も生きていること。
それでちょっと安心してしまったこと。
4月くらいから調子が悪くなっていたこと。
その病院で、脳の転移していてもう数ヶ月で、3年も生きたんだから。と言われたこと。
もう終わりだと思って、ものすごく落ちてしまったこと。
もう家か、病院で死を待つしかなかった。
でも今回の病院で、手術してくれることになって、希望がもてたこと。
ただ、4月に今回の病院に行っていればと後悔していること。
母親の妹が、
「なんで安心しちゃったの、気を抜かないでもっと早く病院行っていたら。」
と言ったとき、父親がしゃべり方は抑えていたけど、
声のトーンは荒げて「過ぎたことを言ってもしょうがない。」と言っていた。
母親の妹も、心配だからつい言ってしまったことだと思うし、それは母親自身も思っていて、親父も悔しいだろうし、それぞれの気持ちはわかる。
その日の夕方、かえる前にトイレに行って出てくると、あまり歩けない母親がキッチンにいて「気をつけて」と声をかけてくれた。
おれは握手をして東京に戻った。
力強かった。
改めて読んでみて思い出すことが多かった。忘れていた。
時間がたつと忘れていくんだなと実感した。
3年くらい前から
それからは結構大変だった。
主に父親が。
身の回りのことをすべてやって、定期的に遠くの病院に車で3、4時間くらいかけて送ったり。
ほんとにすごいと思う。
抗がん剤の副作用でカカトらへんに穴が開いたりしていた。足の裏にできると痛くて歩けなくなるらしく、まだ運がいいと言っていた。
頭の毛も薄くなってしまっていたので、外に出るときはカツラをかぶったりしていた。
少し前
父親から連絡が来た。
今度はもうやばいかもということだった。
会社を抜け出して病院に行くと、呼吸器みたいのを付けられて母親が寝ていた。
シュコー…シュコー…と規則正しく機械が呼吸をさせている。
痰が絡むらしく、時折呼吸が乱れる。
定期的に痰の吸引が必要で、その際すごく苦しそうで、心拍数もかなり落ちて警告音が鳴る。
これがとてもこわい。
しばらくすると警告が出ないところまで戻ってくるけどこわい。
そんな状態で、だいたい1カ月くらい入院していた。
その間、自分も何回か病院に泊まったが、精神的にかなりくるものがあった。
さっきも書いたように、警告音がなったり、呼吸が乱れたりする。
かろうじて生きているような感じで、いつしんでもおかしくないような感じで、こわい。
呼吸器を止めるテープの粘着力で頬の肌がはがれてしまい、傷、あざのようになっている。
しんだ
入院してから1カ月後くらいの朝、連絡があり、自分が病院に向かう途中で母親がしんだ。
離れて住んでいるから、立ち会えないとあきらめてはいた。
実家につくと、畳の部屋に布団が敷かれ、そこで寝ていた。
近所の人を呼んで、父親が状況を説明していた。葬式で協力してもらう習わしらしい。途中泣いていた。
母親を棺桶に入れる前に、化粧をしてもらった。顔の傷もきれいに隠してもらった。
棺桶に入れる際には、まだ小さい、母親からみると孫にあたる5、6歳の女の子も泣いていた。
火葬場で焼いた。
じいちゃんの時は、一緒に骨を骨壺に入れる相手がいなくて、母親が2回やってくれたのを思い出した。
葬式は結構たくさんの人が来てくれた。すごい。
葬式での挨拶で父親は、つらそうにしている母親を見ても延命治療をやめる決断はできなかったと声を詰まらせながら話していた。
葬式まわりの仕組みに関してはいまいち理解できないことだらけだったけど、今回の話からはそれるので割愛する。
さいごに
父親がいちばんつらいだろうと思うので父親が心配だ。
これから旅行にいったりいろいろ二人で遊んだりできただろうに。
思い出の量や、どれだけ思い出すかでつらさが変わってくると思っているので、気持ちを整理して父親にも前を向いて生きてほしいと思う。
普段はつらい感じは見せてないので大丈夫だと思うけど。夜泣いてるかもしれないが。
でも正直、しんでしまった人に対してどうしたらいいのかよくわからない。
自分は、自分がしんだら、自分のことは忘れて生きてほしい。
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